翻訳書(日本語)をたくさん読むこと
洋書を読むための勉強をやりだすと、それまで読んでいた翻訳書(日本語になったもの)を読むことが、だんだんためらわれるようになります。一つには、時間の制限がかかること。私の場合は電車の中がほとんど読書タイムになるのですが、学習を始めた頃から翻訳書と洋書の2冊が必ず入っていました。どっちも読むほどの時間はありません。
もう一つには、英語の勉強をするための縛りのせいです。ほんとうは、好きな作家の新刊の翻訳書を読みたいのですが、「英語を読みたいなら英語漬けになれよ!」という心の声が、じゃまして、翻訳書を思うように楽しめません。ぼんやり同じところを読んだりして、やがて全く集中ができなくなってしまい。閉じてカバンにしまい、おもむろに別の洋書を取り出すみたいなことが続いていました。
確かに、学習中は英語しか読まないというのは正当な話にちがいないです。特に速く成果を出したい、すぐに読めるようになりたい人はなおさらそうです。かつて村上春樹がいったように、英語以外のものは読まないことによって唯一読めるようになる。本はもちろん、新聞や雑誌、電車の吊り広告すら読まない。というやり方。
当時は、ストイックで見も蓋もない感じの、この考えに影響されていたわけですが、今は時間を損したなと感じています。どっちつかずになってしまって。苦しんでました。わたしも、どうも楽に結果を欲しがっていたということです。とにかく焦りは禁物です。
そもそも、翻訳物は洋書を読む助けになるということを忘れていました。洋書の中にはどうしても意味のとれない箇所というのが散見しているからです。その時に同じ本の翻訳物があれば一応の答えを探せます。
また、翻訳の中の日本語はなんというか「日本語でない」ような言葉が、本の中だけで、翻訳本の中にしかない言葉が多くあります。たくさんの翻訳フレーズを知っていることは実は洋書を読むときに、以外と役立ちます。特に面白い会話文や省略の多い作者の本を読む場合に。
そういうわけで、本を楽しめなくなってしまったわたしが最終的にたどり着いた結論は、洋書を優先しつつも、同じ本を洋書も翻訳物も買って読むという(笑 大技でした。ある章は英語で→次の章は日本語で→また次は英語なんていう意味不明な読み方をしたこともあります。
いずれにしても楽しめないと学習も読書も続きません。洋書を含む「本」が読みたいんだという原点に戻って楽しみましょう。